道中にて

 生きるとは確かに大変なことなのかもしれない。しかし、難しいことではない。大変であっても楽しい。次々と課題が出てきても、決して難しくはない。

 何故、難しい顔をして自身の生と向かい合うのだろう。それはおそらく、自身に何かしらの説得を試みたいからだと思う。説得し、諦めさせる。現状の維持が自分の使命だと刷り込む。表情に時が刻まれていく。。。

 やがて、疑問を抱かなくなる。

 そんなことはどうでも良いことなのだが、ただ、生きることは難しくないと思うだけ。

 社会に教えられた自身の無知を反省しつつ、未来への野心と希望が前へ進ませる。

 襟を立てながらも、肌に感じる風が心地良い。

ゴースト

 優しさは穏やかな闘争心を生み出す。日常を、寝ている時間をもすら取り込んでしまう流れ。そこに観えてくるものはまるで無声映画のようだ。時の中を機能的に動き、自身を動かしている感覚が細部にまで伝わり、静止して見える風景の中を動くゴーストのように。

 声は無く、音がある。感情は分散し、陽の光が凝縮する。何者かが、闘争心を運ぶ。

 何と闘うための心なのか。心は何と闘いたいのか。闘うと心はどうなるのか。闘うのは心だけなのか。何を得るのか。何を失うのか。何かを取り戻したいのか。見返りを期待しているのか。闘いの渦中にいるのか。客観的な場所から闘いを見物するのか。

 穏やかな優しさは温度が低く、薄い氷のような感覚だ。触れても良いが、壊してはいけない。陽の光が溶かすまで、じっと待つ。心を温め、しかし感情が蒸発しないように注意を払いながら。

 やがて闘争心は適温となり、無声映画に生温かい血が通い始める。

流れ

 動くということは、自身の動きを観察するという結論に至る。現在の動きを観察することにより、それまでの動きの経過、これから動くべき道というものが見えてくる。

 立ち止まる。それは風景の一部となり、猫の関心すら引くことが出来ない。他者に何かしらのインパクトを与えたいのであれば、やはり動作が要求される。動くことによって、猫も警戒心を持った眼でこちらを窺う。

 流動的に立ち止まる。動作の一環として立ち止まる。生活の中で切り替えが必要とされる時には、そのスタンスが良い。必然的、計画的な立ち止まりは、その人の瞬発力を高める。

 大切なのは、動かないものなど何もないということ。写真はあくまで過去から今を突き動かしてくれるものであり、自身が写真の一部となってしまってはいけない。空間には常に空気が流れ、空気は心に何かしらのニュアンスを運ぶ。肉体は立ち止まっていても精神は動き続ける。地球も宇宙も、意志とは関係なしに動き続ける。

 動くことが宿命とされているならば、動くスタンスを見つめるとしよう。自身を含めた、周囲の動きというものを見つめなおそうと思うこの頃。先ずは、降っている雨に躊躇しないよう、意識が足を突き動かすイメージから。

創るべきもの

 自身が窮地に立たされると改めて、「平穏な日々とは創っていくものなのだ」ということに気づかされる。平穏な日々にもしっかりと立役者がいて、自身はその中でスクスクと育まれているのだという事実。素敵な世界を自ら儚くしているという事実。気づくと忘れかける事実。

 そんな世界で、日々の平穏を創ろうと決意した。

 決意がスパークして暴走する前に、しっかりと、その瞬間を噛み締めて、眼を瞑る。

 自身のことなら、深刻になるものなど何もない。ただ、深刻と怯えを混同しないようにすればいいだけ。艶やかに、人の心を艶やかに。

 噛み締めて、眼を開ける。空間には、無が存在出来ないことを見た。

ただ、つらつらと・・・

雪が降っている。世界を真っ白に変えようと、雪が微かな音を立てて降る。当然、完全なる真っ白な世界は出来ないことを、降ってる雪も知っている。目指す真っ白な世界を誰かに汚される前に、雪は自ら雨に変わり、作り上げていた真っ白な世界を溶かす。それでもまた、雪は降る。真っ白な世界が完成出来る、その時を窺いながら。

 刺激ある魂に触れ、自らもそう在りたいと願い、距離の走り方を考える。

 逃がした瞬間はやはり帰っては来なく、何にも属すことを止めてしまった。

 ふと思う。僕はしっかりと、自身の言葉を育てることが出来たのか。世に送り出せるような一人前の言葉として、しっかりと育てることが出来たのか。

 そんな無責任な親心を抱きながら、魂の揺れ方に耳を澄ませる。

年の瀬の一時に

 身の回りだけを考えてみても、多くの物や人、属すべきことや受け入れたい、受け入れざるを得ないモノがある。「そんな全てを取り払えるだけの自信が欲しい」と思ったりするこの頃。

 何が正しくて何が間違っているとかそういう観点から見るのではなく、ただ、直感に身を委ねてみる。

 直感に不随する、爆発的な集中力を意識してみたら、自身の中にもマグマがあることを感じた。

 ふと思う。大切なのは、想うこと。

 時の流れにも区切りがあり、リセットされる。再生というものの力に挑戦してみたくなった。

静かな世界の成分

予定外なんて状況に対面すると、「意外と予定というものに縛られて生きているのだなぁ」と思ったりもする。予定なんて案外自己中心的なモノで、自身の歪みはソコから発生し、勝手にハマって勝手に悩む。

 そう、歪みにハマって悩む。

 解決策は、言葉にすれば簡単だ。歪みを作らなければ良い。

 例えば、洗濯物をきちんとたたみ、元あった場所へと戻す。いるものといらないモノを分別し、ゴミ箱へ捨てる。ハエが飛んでいるようなら叩き殺し、供養もなく火葬をゴミ処理場へ委ねる。部屋の中が心なし簡素なモノに見える。無機質な中に潜む至福の感情。その感情のベクトルは明らかに、歪みとは正反対の方向へと向かっているのだろう。

 砂漠を見たければ、雪原を見たければ、月と太陽、その重力の狭間を覗きたければ、まずは自身の内面を見つめる。感情はその全てに属しているはずだから。

 歪みも、無機質な空間も、自身に一つの世界を提案する。その中から一掴みのロマンを抽出し、未だその手すらも見えないことにもどかしさを覚える。

 歪みを無機質で塗りつぶす。その繰り返しが、人生というものなのかもしれない。世界はとても静かに刻まれる。