スクエアスペース

錯覚を上手く利用すれば、物事って意外と単純なものだったりする。いや、単純な物事を、自身が勝手に複雑にし、錯覚を頼りにしなければ、とてもじゃないがやり切れないという状況にまで陥れてしまったとでもいうか。

 日々の流れが川だとして、自身はその川に沿った森だとする。この過程を設定する時点で、錯覚の利用が必要とされる。「森=複雑」という方程式を解くことに必死になり、川の流れを意識することを、川が流れていることを忘れてしまう。

 森から抜け出す必要はない。ただ、森が在ることを受け入れればそれで良い。木々が植えられている土を掘り返してみる。木の根に注がれる水分は川と繋がっており、見上げた空には隙間を縫って、光が針のように差し込んでいる。空はやっぱり、死と近いことを認識する瞬間。

 そして自身が一番恐れていることは、森が枯れ、見通しが良くなってしまう状態。森は木が一本生えていたところで成立しない。

 全ては感覚的なこと。人生って、こんな感覚の世界で成り立っていることを、最近改めて実感する日々。

 今日もまた、森と自身、川と空の間に四角形を描く。

所有って何だろう?

 CDデッキの調子が悪い。正確に言えば、CDデッキの再生の調子が悪い。他の機能は問題なさそうなのだが、ただ、再生という、最も重要な機能が困ったことになっている。

 これって、人間で言うところのどんな症状と言えるのだろうか。そんなことを考えながら、新たなCDを手に入れる午後。

 それはさておき、部屋から音楽が無くなったことにより、我が家はとても無味乾燥なモノとなり、眼に入るモノ全てが他人事のような違和感を帯びてくる。この部屋の所有主は実は、僕ではなく音楽だったのかもしれない。

 そもそも、僕は何を所有しているのだろう。何か所有をしたいのだろうか。

 考えてみると、僕が所有しているものって何もない。いや、あるにはあるのだけれど、「あるのだろうか?」というようなもの。

 どうせ何も所有出来ないのならばせめて、モノを垂れ流すのではなく、能動的に捨てたいと思う。「捨てる」ということが、僕の所有物となるように。

 モノも時間も、受動的に生きられる世界が改めて不思議に感じる、僕に与えられた、限られた一日。

幸せと絵空事

 何とはなしに机に向かって、PCの前でいざ、特に書きたいこともない。これって、幸せの一つの形なのではないだろうかと思ったりもする。

 もしも幸せが自身の感覚を鈍らせていくものだとしたら、世の中に不良はいらなくなり、政治家気質の人間が増えていき、一つの決定事項は色褪せる寸前まで話し合われることだろう。

 本質は悲しみを誘導させ、幸せは迫害を受ける。

 根本を揺るがすような現象、根本に「?」を植えつけるような事態に遭遇しない限り、幸せはアナタのもとから離れない。野生の動物を見ていてふと、そんな気がした。
 
 さて、人間と野生の動物の中間、その中間に潜む感覚を大切にしまっていこうか。

言葉の揺れる幅

 言葉にも感性がある。心に残る言い回し、人格、未来を創造する様な言葉が。そんな言葉の数々に触れるだけで、僕の心が蠢き始める。

 言葉とは、身体のどの部分から発せられるものなのだろうか。

 自身の言葉というものは、知識とは別の次元で振り分けられる。その振り分け方が能動的ではないことに落胆を覚えたりもする。

 空気は無数の言葉を振動させ、全てを包み隠さず乗せる。音は消えても、その事実は地球の裏側まで届くのかもしれない。

 良い言葉を捕まえたい。キレイな空気の中で。そして、そんな言葉を還元するために、太陽と月の間で動いてみる。

 願い続ければ、不自然が、新たな自然を作り出すかもしれない。

信念が映し出す眼の色

信念を貫いている人の眼はとてもキレイだと思う。迷いがないと言ったら嘘になるだろう。いや、むしろ、「貫きたい」という想いと、ソコに生じる迷いが絡まりあって、その眼にキレイだと思わせる魔力が生まれるのかもしれない。

 信念は、貫かれるために生まれた感情なのだろうか。

 この信念というものは、その人に善悪の基準を作り出す。選択と決定力を持たせる。区別と差別のボーダーラインを引き始める。何かが自身を突き動かす。

 上のように並べ立てるとマイナスな要素のように聴こえるかもしれないが、良いとか悪いとかではなく、これは一つの事実なのだと思うだけ。

 僕は思う。どんな信念でも、その人の眼がキレイに映るのならば、それで良い。

 真昼の日差しと向かい合う。光が眼を文字通り刺す。僕の顔は醜く歪み、若干の凶暴性を帯びた視線を地面に落とす。眼の奥に、ごろつく痛みとやるせなさを覚える。

 きっと、信念が生み出す、キレイな眼をした人を前に、僕はこれと同じような表情、仕草をしているのだろう。それを思うと、僕の弱い信念は、自由というよりは虚無に近く、太陽の光のような魔力がない。

 さて、僕はこれから、ドコに進んで行くべきだろうか。

魂に宿る美しさ

 時々、美しい魂のことを考える。美しい魂とは何か。否が応でも認めざるを得ない美しさとは。そんなことを思い浮かべながら、自分を取り巻く流れに戸惑い続けている日々。

 瞬間の美しさに出会えたとき、ソコに持てる限りの感情を注ぐ。瞬間が過ぎた後は、空間を埋める努力をする。自己の世界は驚くほどだだっ広く、空気の音が聞き分けられる程に無音だったりもする。

 イメージを構築する。日々、構築し続ける。その時に必要な種を蒔く。ワルツのように穏やかなモノが良い。

 世界は感情で動いていると気づいたから、あらゆるところに美しい魂の存在を探しに行くのかもしれない。

 窓を開けて、風を入れて、足音の響きを堪能して、嫌いな感情が召されることをそっと祈る。美しい魂が訊ねてくるその瞬間を待ちわびながら。
 

未知への道に思いを馳せる

 新たな感覚を身体で感じるための何か。

 その何かを探しながら、機械・自然に耳を傾ける。

 人にとって魅力的なものとは一体どんなものなのか。

 きっと、それは共存と犠牲の歯車が噛み合った世界なのだろう。

 犠牲を償うための手立てと同時に、一方的な破壊も繰り返していく。

 自然の中に在る、生命力の強さに希望を見出しながら。

 そんな狭間で、懸命に生きることを考える。

 自己の正義を確かめるために。