幸せの成分

 曖昧というニュアンスは人との繋がりを生み出しやすい。そこにはある種、麻薬のような作用が働いているから。自我という思考は溶け出し、虹に架かる色は益々不鮮明になり、均一化という場所へと辿り着く。そこでは何を求めるでもなく、また、何も求められない。繋がりとはそのように、几帳面にぼかしながらそれを維持する作業だ。

 そんな繋がりを観て思う。「曖昧が存在する限り、人は常に一人だ」と。

 ゼロか百しかない世界なら、人は完璧な繋がりを手に入れることが出来るし、永遠の別れも存在する。幸せの価値観は単一化され、芸術は存在意義を失う。

 ぼかしたフィルターを覗いて絶対的な価値観を構築する。永遠の幻想を携えながら。

 フィルターを外してみる。自分が点の一つという感覚が蘇る。他者との間に引かれた線を見る。その線は太いのか、長いのか、真っ直ぐ一直線に伸びているのか。線を様々な角度から観察したくなる。

 一体、どれだけの共通項が繋がりと呼べるのだろうか。

 こんなことを考える時点で、曖昧なフィルターは完全には外れていないのだろう。それが悪いわけではなく、アンドロイドの世界が良いわけでもなく、ただ、一つの疑問。

 曖昧が幸せの条件の一つならば、やはり必要不可欠であることには違いない。神様は、そんな環境の中で生まれ育ったのだから。

 もしかすると人間は、最も幸せそうに思える曖昧さを探すべきなのかもしれない。