日常の一側面

 一日を誰とも会わないというのは、良く考えると不思議な現象だ。生きている限り、心臓が動くことを止めないのと同じ位の定義で沢山の言葉が生産されている。他者との会話をしなくとも、言葉は常に生産され続け、その言葉は自身の心に語りかけている。

 言葉は、一人でいる時にも日常性を与える。

 つまり、「日常=言葉」という方程式が成り立つことに気づく。行き場を失った言葉は自身の心にしっかりと帰るべき場所を持っている。そう、言葉は生き続ける。

 言葉が生き続けるということは、自身が他者に、他者が自身に投げかけた言葉も生きるということ。言葉は生きていく中で独自の進化を遂げ、白い花にも刃にもなる。

 投げかけた言葉の持つ力、それに不随する責任のドコまでが自身のもので、ドコからが他者のものになるのだろう。その境界線はあやふやな方が平和だと思うが。

 一人での会話はボールを壁に投げている感覚と似ている。特に生産性があるわけではないが、妙に楽しくもなってくる時間。その時間の中で知らず内に鍛え上げられた何かが、他者との共有に繋がれば良いなと思う。

 練習と本番の繰り返し。時に一人になることの大切さ。