きっとドコかに存在する海

 流れについて思う。川の流れや人の流れ、会話の流れや時間の流れ。流れに対するスタンスは、その状況で大きく変わる。流れる、流れたい、流される、流されたい。

 そこにある流れにどのようなポジションを取るか。それは心に描ける期待と感覚が瞬時の判断を下す。流れを変えることは自身の奮闘にかかっており、その先には理想の海が広がっている。

 そんな理想の海を求めるのも楽しいが、流されたいと思える状況に身を置くのも好きだ。そこには想像力を軽く飛躍してしまう何かが在るから。

 主体的に流された場所には何かしらの楽しさを見出すことが出来る。そこにどんな結果が待ち受けていようと、全てを吸収出来るだけの期待に胸が膨らんでいるから。

 楽しさは、予測を超えた膨らみ方にある。その感覚に触れることが出来れば、平和の意味に近づける。

 平和ってきっと、その一秒一秒に旅を感じられること。平穏な日々は幸せを麻痺させ、平和という感覚を失ってしまう。楽しさと巡り会いたいのなら、平穏ではなく平和を胸に詰め込むべきだ。

 もしも平和の欠片に触れることの出来る、触れたことのある環境に生れ落ちたならば、存分に平和を満喫するべきだ。自身の平和はきっとドコかで、何か、誰かと繋がってくる。理由など無意味だと思える海で。