自画像からの派生

 自我を守る手段というものがいくつかある。心を閉ざしてみたり、また、やみくもに心を撃ちつけてみたりする。成功への報酬はない。ただ、益々沈み込み、逆上の気持ちが鎮静剤として作用してくるだけのこと。ま、所謂「逆切れ」というやつ。

 何故、そんな数々の試みをしてみても、成功への報酬が悲しいものなのか。それは、根本が間違っているからに違いない。

 守るべき自我なんて存在しない。いや、少し違う。守るべき自我が多すぎるのが原因だ。

 日々の選択の中で自我が生まれる。その自我を育むことに、人生の楽しみを見出すことが出来てくる。その自我は本来、一つの方向へと集約されるべきもので、その幹から派生された、小さな、自我と呼ぶには少し大げさなものが付随されていく。

 そう、間違えてはならないこと。自我と呼ぶに相応しいものは限られている。

 根源を知る、根源の土台を作る。そのことに意識を集中させるべきで、ちょっとした風に吹かれるようでは、それはもはや自我とは呼べない。

 そんな自我と思えるものを作る。その過程で改めて、多くのモノ、関係、巡り合わせに思いを寄せる。良いことも、悪いことも、それが土台となっている。

 自我なんて偉そうな言葉自体、ある種の嫌悪感を覚えてしまうが、それが身体に組み込まれていることは否めない。

 究極は、自我を身体から排除することなのだろうか。今の自分には何も言えない。