胸を張って言える所有物

懐かしいCDが聴きたくなって、昼空の下、窓を全開にして流す。何度も聴いたその曲。音源がなくても忠実に頭で演奏できる。

もしも今、この世から音楽を楽しむ機材が消えてしまったら、自分はどれだけの音源を所有しているのだろうか。身体の中に。

時々思うこと。「全てを失くすために、自分は今、どれだけのものを所有しているのか」ということ。

形あるものは、少なければ少ない程良い。大きな空も雲しか持っていない。ここから出て行くことが出来ないのは、形あるものが多すぎるから。

そこで再び考える。「自分は今、一体どれだけのものを所有していると言えるのだろうか」と。

考えてみると案外、所有物と呼べるような思想も感性もない。身体の中は驚く程に空洞だ。

どれだけ形あるものを手元に置いても、それは所有しているとは言いがたい。結局、そこに身体が反応しない限り、形あるものは空間にある脂肪と一緒だ。

脂肪空間からの脱却。そのために、人は心と想像力を使う。その過程で、所有物を与える人の大きさに気づく。

有るところには在る。所有物とは、その存在を根付かせるもの。本当に所有しているものは、繋がりを生み出すに違いない。イエスが説きたかったことって実は、人、自然、神との間に存在している、所有物についての見方なのかもしれない。