アクセサリー

癖には、当然のことながら良いもの悪いものがある。ついつい部屋を掃除してしまう癖、ついつい遅刻してしまう癖。癖とは言い換えると無自覚の習慣であり、自身では決して見つけることのできないもの。そんな危険なアクセサリーを、常日頃から身に付けている。そう思うと少し怖くもなり、また他者と積極的に会いたくなるものだ。

習慣には、本来好ましくないものであるにも関わらず、それが妙に愛しく感じられるものもある。それはつまり、人柄というアクセサリーも同時に身に付けているからだろう。

そう、人は、無自覚の内に多くのアクセサリーを身に纏っているものだ。人はみな、その無自覚のアクセサリーに反応している。

そのアクセサリーを一体ドコで手に入れるのか。そこにその人の個性が見て取れる。例えば、頻繁に舌打ちをする人。その舌打ちには決して悪気は無く、その人は無自覚の内に、自分が憧れてきた文化を現しているのだと思う。きっと、アメリカ映画の登場人物であるような気持ちになれるに違いない。そんなアクセサリーを見ると、妙に愛しく感じられたりもする。

そのように考えていくと、無自覚のアクセサリーを見せたいのは他でもない、自分自身なのだと思えてくる。他者という鏡を見つめながら。

個人の哲学とは、実は近くにあるものだ。ただ、あまりにも近すぎて、他者という鏡を覗き込まない限り見えてこない。その、個人の哲学に気づくことによって、新たなアクセサリーを必要としたり、いらなくなった物を外したりする。

人と会話をする時に、そんな無自覚のアクセサリーに注目してみたい。新たな繋がりに気づくための試み。