半分の感覚

半人前という言葉がある。一人としては足りないという意味。だが、半人前はゼロではない。そこには何かしら認められるだけの基準が用意され、価値判断を下す人の対象になりえている。半人前というニュアンスは面白い。半人前はある意味、一人前の人よりも評価の対象として注目を浴びる存在なのだから。

半人前が注目を浴びるのは、人の中に眠る親心なのかもしれない。だから半人前の人を判断する時、評価を下す人は一人前であることが前提とされる。半人前の人は、自身を半人前と自覚して、その一挙手一投足に注目するが、評価を下す、一人前とみなされる人間にはその自覚がない。

半人前という自覚と一人前という無自覚。

そんな半人前の人に注目を浴びせるのは、当人が自覚していることでの、これからの変貌振りに期待を寄せているからかもしれない。

エデンの園が本当ならば、人は皆、半人前でしかないわけで、それはどんなに自覚をしても、決して一人前にはなれないということを意味している。もしもブッダがこの話に興味を抱いていたとしたら、彼は一生、涅槃の境地へと達することはなかっただろう。それと同時に、半人前でも立派に一人前な行動を取れるという証明にもなっている。

半分という自覚のもとで周囲を見渡す。自分は今、何に意見を求め、又、意見を発しているのだろうか。