常識というものの考え方

何か新しいことを始める。それってとてもいきいきとした感情が流れてる。外国人と外国語でシドロモドロに話しているときのような。時間の経過と供に薄れていく新鮮という気持ち。気が付くとマンネリ化している作業。そんな作業にあなたはどのような打開策を取っていますか?

先ず、何故にマンネリ化を起こすのか。それを考えてみると一つの答えが。それは自身に対してのマンネリ化、言葉を変えると自身への怠慢がそのような事態に呼び起こす。要するに、飽きたということ。何に飽きたのか。そんな作業をしている自分に飽きたのだ。

では、どうすれば良いのか。それは悟りを開こうという気持ち、良いものを引き継ごうという意志。そんなものが打開策に繋がってくるのではないだろうか。

今の作業が意味なく思えるということは、その作業への悟りが開けていないということを意味している。悟りを開こうと志す。その過程で、自身に足りないものの多さに気づくのだ。

良いものを引き継ぐということは力のいる作業である。歴史は繰り返す運命にあるのなら、良い歴史も繰り返されるべき。そのために道を舗装してあげることは、自身の足跡を辿るためにも大切なこと。そう、歴史を止める行為は傲慢意外の何物でもない。

改めて常識を提示する。それが今までにあった常識でも構わない。ただそこに、自身の哲学から生まれてきた常識なのかどうかが重要なことだと思う。何かを生み出すとは、歴史の再構築から始まるもの。新鮮さを諦める前に、そこにいたるまでの歴史、常識を提示していければ良いなと思う。