雨の日の

雨上がりの街並みが好きだ。人々の表情が少しだけ和らぎ、雨が上がったことから何かを期待している感じが伝わってくる。そして、自分もその一人に違いない。雨が降らないと深刻に悩んでいる国、人々も確かに存在してはいる。しかし、それを意識した上で嬉しい気持ちを抱くのは、自分が水というものに恵まれている証拠だろう。

恵まれているということを、もう少し掘り下げて見てみたい。常日頃から水のことを意識しているわけではない。それなのに恵まれているというのは、適切な表現ではない気がする。意識しなくてもソコにあるから恵まれてるのか。恵みとは意識に上らないことなのか。

では、他に似たような感情を抱くものとは何だろう。人間関係、生れ落ちた場所、食物。そんなものが感覚として通ずるものがある気がする。それらと水の共通点、それはやはり、意識に上ってこないことなのかもしれない。

結論。意識をせずともソコにあるもの、気づいたらソコにあったものに対し、自然と恵みを感じている。しかし、その恵みに気づくのは、現象が過剰になろうとしている時だ。そう、過剰は恵みではない。食べ過ぎが、決して幸せな気分にさせてくれるわけではないように。必要最小限に容易されているものに、自分は恵みを感じているようだ。勿論、水と人間関係を同じレベルで考えるのはおかしい。ただ、水も人間関係も絶えず変化をしている。その変化に敏感で、柔軟に対応出来ないことには、その恵みにすら気づけないという点で同等だ。

恵みを感じたとき、改めて、そのものとの距離を考えてみたいというきっかけを掴んだ一日。