不埒な心と業の関係

例えば、仕事帰りの道草が大好きで、いつも真っ直ぐ帰ることが出来ない。どんなに一冊の本に熱を上げていても、本屋で新しい本を絶ち読んでしまう。「道草とは、こんな不埒な心からきているものなのかもしれないな」とつくづく思う。では、不埒な心は一体どこから来るのだろう。

先ず、不埒な心が生じる前提として、帰るべき場所があることが必要とされる。帰るべき場所もなく不埒な心は生まれない。恋人のいない人が女性に目を奪われるのは不埒な心ではなく、それは狩猟の目で追っているだけのこと。そこにはとても健全な精神がある。言い換えれば即ち、健全なゆとりが不埒な心を生み出すということ。

健全なゆとりに満足出来ずに不埒な心を生み出すサイクル。それは果たして悪いことなのか。そうとも言えるし、そうでないとも言える。帰るべき場所で待っていてくれている他者に少なからず失望感を与えてしまう。外食で済まされてしまった母の手料理のような感覚。

しかし、不埒な心を抱けないということは、今の現状をマンネリ化させることへと繋がるかもしれない。そう、不埒な心から生まれるちょっとしたリスクが、関係の健全さを再認識させてくれる。ちょっとした刺激物がなければ全てがぼやけていく。子供の必要性は正にその、スパイシーな作用に期待を抱けるところにあるのかもしれない。

不埒な心を背負う業の深さ。それを意識することで、今ある関係に潤滑油を注ぐことが出来るのではないだろうか。