日々の流れを感じながら

流れるものには二種類の流れ方があると思います。垂れ流しな流れ方と、その先に目的地がある流れ方。テレビで連夜報道されている事件を観て、ふとそんなことを思いました。「この報道はドコに辿り着こうとしているのか」と。

何故、目の前の事件だけに目を奪われ、そうかと思えばどうでも良い芸能報道と平行して提供しているのか。残酷さはこんなところにも潜んでおり、この報道の中にこそ、生き地獄というものがあるような気がしてなりません。それを見事に演じきるニュースキャスターにちょっとした敬意を払ったりもしたくなる。意図的にタイミングを外して、生き地獄を心地良く見させるのですから。ニュースキャスターの葛藤は僕には想像も出来ない程に分厚いものなのだろうと思います。

では、何故にタイミングをずらす必要があるのでしょうか。僕は次のように考えます。「それが世界に、人間に一番負荷を与えないやり方だから」なのだろうと。世界は少しずつずれていないと流れていかない。人間は重すぎるとそのバランスを崩し始める。ズレながら流れ、その先にはきっと、漠然とした世界平和が待っている。それは少なくとも人間にとっての、しかも平均的なやり方で。

漠然とした平均値は勿論社会が作り出したもの。それが良い悪いではなく、その一線がないと一気にバランスを崩し、流れは途絶えてしまう。神様を作り出したのと同じ感覚。今や世界の至るところに神様が生産され、神様のいるところには必ずと言っていいほど生き地獄が潜んでいる。それが人間が選んだバランスの取り方なのだと思います。

まぁ、流れるのにも紙一重の危うさがあり、そのバランス次第でいくらでも激流にも干からびたりもするんだなと。